トップページ社長通信第191号 ベトナム

社長通信

第191号 ベトナム

2004年01月号

 昨年の12月27日から31日まで夫婦でベトナムに行ってきました。夕方6時成田発の便に乗って現地に着いたのは11時。2時間の時差があるため、日本は夜中の1時です。ホーチミン空港は、周りの電気もまばらなために、暗闇に包まれていました。暗闇に近い空港の外は人がいっぱいで、こんな時間に子どもの手を引いた女性が裸足でうろうろしていて、ホームレスかと思いました。

  べトナム戦争が終わって28年。かなりの発展ぶりを予想していましたが、現実を見てみると私の子供の頃の生活がそこにありました。人口は8千万人。国民1人当りの総所得は430ドル(約45,000円)。1ヶ月になおすと4,000円弱です。所得水準は、日本人の約100分の1となります。

  通貨はドン。1ドルが15,600ドン。30ドル(約33,000円)を両替すると50万ドンもくれます。10万ドン紙幣はかつての我が国の50銭札くらいの大きさで、1万ドン札もほぼ同じ大きさのため、良く見ないと間違えてしまいます。物価は安く、どんな物も日本の10分の1位の感覚です。

 翌日は市内観光。私の子供の頃の日本と違うのは、街中バイクだらけと言うことです。

 バス以外に殆ど公共交通がないので、人々の通勤はバイクに頼らざるを得ません。そのため、どの家庭も1年分の年収をはたいてバイクだけは持っています。人々はヘルメットもかぶらず、バイクを道路いっぱいに走らせています。1歳位と思しき子供を小脇に抱え、片手で運転している親もいて、ぞっとしました。また、120cc位のバイクに家族4人で乗っている姿や、裸で運転している人も見かけたりします。

  しかし、信号機も殆どないのに滞在3日の間に一度も交通事故を見ませんでした。走っているバスの前を平気で横切ったりしますが、どの車も時速40km位で走っており、急にスピードを上げたり、追い抜いたりしないことがお互いのルールで、安全なのが分っているからでしょう。

  次に訪れたのはアメリカとソ連・中国の代理戦争であったベトナム戦争の傷跡でした。最初に見たのは、べトコンといわれるゲリラが出没したジャングルのトンネルです。頭を低くしないと通れないトンネルが無数に掘られていて、B4判位の出入口が落ち葉に隠して作ってあります。べトコンは蓋を押し上げて、そこから頭だけを出して米兵を狙い撃ちし、さっと地下に潜れば、何処から撃ってきたのか分らないのです。また米軍と違って充分な武器を持たないゲリラは、多くの落し穴を作りました。それらの底には無数の竹やりが天に向かって差し込んであり、敵が落ちたら串刺しになってしまうのだそうです。想像するだけで背筋が寒くなる代物でした。

 このような厄介なゲリラを掃討するために、米軍はジャングル枯葉作戦を展開した訳ですが、その後遺症として、ベトちゃん・ドクちゃんを代表とする奇形児がいっぱい生まれることになりました。戦争記念館には彼らのおぞましい写真がいっぱい展示してあり、戦争の惨酷さを改めて思い知らされます。

 結局、アメリカは撤兵することになり、ベトナムは全土が統一され社会主義化されました。然るにその後、後ろ盾であったソ連が崩壊し、ロシアとなって自由主義化・市場主義化の道を歩み始めてしまいました。独り取り残されたベトナムは、経済の沈滞が続き、経済発展の度合を見ても、中国と比べて20年くらい遅れている印象を受けました。町で見かける商品の殆どは中国製で、ベトナムの輸出品は米と女性(実際は魚類、石油、繊維製品が多い)だとガイドが言っておりました。彼の言うには、ベトナムは女性の人口比率が60%のため、女性が余っていて、そのため女性が足りない中国・香港・台湾へお嫁に行くベトナム女性が多いのだそうです。

 いずれにしても、ベトナム人はアジアの民族の中では特に姿や顔が日本人に似ており、日本人に対してフレンドリーです。そして、彼らのつぶらで柔和な瞳の中に輝くものがあるのは、今日より明日は更に良くなるだろうとの希望があるからでしょう。郷愁を誘う3日間でした。

会社情報
お問い合わせは、フリーダイヤル0120-300-100 資料請求・お問い合わせ
ページの先頭へ