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社長通信

第194号 近江商人

2004年04月号

 私の生まれ育ったところは、滋賀県の彦根です。滋賀県出身と言うだけで、直ぐ近江商人は商売が上手いから油断が出来ない。近江泥棒のことわざもある如く、滋賀県出身と言うだけで特別な印象を持たれてしまいます。近江商人は掛売りをビジネスモデルとしていました。気安く掛売りをしましたから、お客は喜んで買います。今までは自給自足で必要なものは自分で作っていましたが、「つけ」で買えるのですから作ることをやめてしまいます。1年に一度、年末には払わねばなりませんので、お客はそれまでに貯めた金がなくなります。消費の「つけ」を何ヶ月も後に払うのは、いつの時代も金を取られた気になるようで、それを泥棒と揶揄されるようになったのでしょうか。

 近江商人といえば、天秤棒と重なりますが、天秤棒を担いで諸国の産物を行商していたわけではなく、主として消費地の商人に「卸売り」する問屋でした。「諸国産物廻し」と言われるもので、商品を生産地から消費地に運び、卸売りすることでした。また消費地からの産物も買い上げ、需要のあるところへ運びました。近江の商人が、戦国時代から全国を股にかけて交易をして、大成した先人が多いことは事実です。

 初期のころは商品を天秤棒で担いで運びましたが、商いが大きくなるに伴い、船や馬を使ったということは言うまでもありません。交易業としての商社の原型は近江商人の発明です。伊藤忠商事や丸紅などの大商社や日本橋界隈の繊維問屋に近江商人が創業した会社が多いのは、そうした歴史があるからです。

 「しまつしてきばる」のが近江商人の家訓なのは、卸し販売が主で、元々薄利だからです。それでもお店を継続発展させるために、しまつ(始末)しなければ儲かりません。始末とは節約、すなわちコスト切り下げ、経費を削減することであり、決してけちになれとは言っていません。けちは他人に軽蔑されるだけで、得にならないからです。次にきばる(気張る)ですが、精を出して働く意です。田舎では「おきばりやす」が日常の挨拶です。私が子供のころ、働いている人を見ると、「よう~おきばりやす」と挨拶したものです。

 近江商人の出身地には決まった地域があり、有名なのは現在の近江八幡市(近くには信長の安土城址があります)を中心とした地域の八幡商人。鈴鹿山脈を越えると伊勢という僻地の日野商人。それに彦根藩領出身の湖東商人です。これらをひっくるめて近江商人と呼称されています。

 蚊帳や畳表を作り、全国へ売り(卸し)歩いたのが八幡商人。永禄時代から続くふとんの西川が有名です。戦後ではワコールの塚本さんも八幡の出身です。

 薬や漆器の日野商人。日野藩は蒲生氏郷という経済政策に優れた殿様が治めていましたが、秀吉がその実力を恐れ、伊勢松坂に転封させ、さらに会津若松に転封させました(会津の漆器技術は日野商人がもたらした)。当社創立初期からの私の片腕である江川専務(実家は漆器店であった)が会津出身なのは何かの縁でしょうか。群馬県藤岡市で酒造業を営んでいる、古めかしい名前の高井作右衛門という私の高校同級生がいます。彼は元文元年から続く当主の名前を、親が無くなった後に襲名したものです。ところが、彼には伊勢にも会社があり、日野には豪壮な本家があり、今でも3ヵ所を行き来しています。

 次に湖東商人ですが、麻布や縮緬などの繊維類が湖東の産物。誰でも知っている有名企業では、安政時代、伊藤忠兵衛創業の丸紅・伊藤忠商事に始まり、日本生命(弘世助市)、トヨタ自動車(豊田佐吉)、ノーベル賞受賞者を出した島津製作所、商船三井大阪船舶、西武鉄道等々、金融から、開発型メーカー、運輸まで、幅広く超有名企業の創業が湖東商人なのはうれしい限りです。創業は近江商人ではありませんが、松下電器の中村社長は、彦根東高校の私の1年先輩です。松下電器の組織大改革を行い、目覚しい業績回復を成し遂げたことで、注目の人です。これらの多くは、今で言う新しいビジネスモデルのベンチャー企業であったということです。私が新しいことに挑戦し続けるのは、私にも湖東商人の遺伝子が入っているのでしょうか。

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