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社長通信

第210号 宗教家

2005年08月号

 最近はお葬式に参列する機会が多くなりましたが、先日、キリスト教会での前夜式(通夜)に出席する機会がありました。式の最中に、パイプオルガンの伴奏による賛美歌合唱が3曲。その間に牧師さんのお話が30分以上もありましたが、特に故人についての思い出話に感銘を受けました。私は故人とは20数年前に数度お会いしたのみでしたが、牧師のお話を聞いているうちに、彼女の人となりが昨日のように思い出され、涙腺が緩んでくるのを懸命にこらえざるを得ませんでした。牧師さんの話によると、病院へのお見舞いの他、納棺の儀にも立ち会われたそうです。彼女は、2年半の闘病の末に、58歳という若さで逝かれたのですが、そのお顔は寝顔のように安らかで、まるで安心して神の元へ召されたようでした。彼女のようなクリスチャンは、日頃から牧師さんとのお付き合いが深く、彼らの人生はいわば神とともにあると言っても過言ではないでしょう。
 
 翻って、仏式の葬儀を考えてみると、お坊さんが納棺に立ち会われることはまずありません。まして、故人について長々とお話されることも殆どありません。檀家でない人は、お坊さんとのお付き合いも余り無く、死んで初めて面識(?)を得て導師を務めてもらうのが普通です。そのため、導師が故人のお話をしたくてもできないのは当然です。
  
 先日、大手証券会社の重役さんとお話しておりましたら、田舎にいる親の葬儀の時に、お坊さんから300万円のお布施を要求されたそうです。地元に2人の弟がいるそうですが、お墓を継ぐのは嫌だというので、東京にいるにもかかわらず、長男であるが故に、墓守をしなければならないと嘆いていました。
 
 また、あるお坊さんから聞いた話ですが、坊さん仲間の息子(副住職)の結婚披露宴に参列したところ、式は教会で執り行われたと言います。後日、坊主が教会で式を挙げるとは何事だと文句を言ったところ、「坊主」は「仕事」であって、結婚式はプライベートな行事だとぬかしおったと怒っておられました。
私はキリスト教が良いと言っている訳ではありませんが、ただ、お寺の世界を垣間見るに、葬式仏教に堕して本来の勉強を怠るお坊さんが多く、いよいよ仏教は末期症状を呈してきたように思われてなりません。

 我々、在家の人間が日々汗水流して働いて得た収入から、多額の税金を取られ、残ったわずかばかりのお金のなかから、やっとの思いで5万円とか10万円を貯めているのを、お坊さんたちはどれほど分かっているのでしょうか。だから、平気で何十万円何百万円の布施を請求できるのだと思います。お坊さんに言わせると、檀家も少なくてお葬式も余り無いから、1軒あたりの布施を多くいただかないと寺が成り立たないそうです。しかし、私に言わせれば、お坊さんが勉強も修行もしないから、お坊さんとしても人間としても魅力に乏しい。だから信仰する人も檀家も増えないのです。企業に置き換えてみれば、顧客が増えなければ、経営が成り立ちません。ならば、止めるか、倒産するか、生き残りたければ合併ということになります。それを、お寺は、必要な経費を全部檀家に背負わせると言うのですから、檀家は増えるどころかその寺から逃げ出してしまう、と考えるのが自然でしょう。

 かつての貧しい時代ならば、現世がどんなに苦しくても、せめて来世だけでも、ご先祖様には幸福になってほしいと、その供養をお寺さんにお願いしてきたのも理解できます。戦前教育を受けた世代までは、お寺が供養をしてくれているからという理由で、檀家の義務を果たしていた人が多かったと思います。しかし、今後、戦後教育を受けた世代が檀家の中心となってくると、現世が苦しいという記憶はないですから、来世での幸福を願うという、供養の考え方も変わってきます。そのような中で、相変わらず葬儀や法事などの供養だけがお寺の仕事では、檀家離れが必然で、いずれお寺の2/3が立ち行かなくなるだろうといわれています。

 つまり、その経営については、お寺も一般企業と何ら変わることがないのです。即ち顧客満足・・・檀家満足です。檀家が満足するお寺とは、どれだけ魅力的な住職がいるか、なのです。即ち尊敬される人間性、優しさと慈愛、そして知識、更に宗教家らしい清貧さを持ち合わせている和尚のいるお寺しか生き残れない時代がもうそこまで来ている、と言っても過言ではないでしょう。

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