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社長通信

第219号 朝貢

2006年05月号

 先日、50時間にも及ぶ三国志演義(小説)のテレビドラマをDVDで見ました。それは、紀元220年から280年までの60年間に、魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)の三朝が分立して戦争に明け暮れた古代中国の混乱期を描いた壮大な物語です。この歴史小説の元になった「三国志」(三国の分立が終わり、天下が統一された280年から289年にかけて編纂された史書)には、魏の歴史について書かれた部分、所謂「魏志」に当時のわが国の様子を記述した部分があります。当時のわが国は中国人から「倭(わ)」と呼ばれていましたが、ドラマを見ながら、当時の倭国(日本という国号ができたのは7世紀末)はどんな状態であったのだろうとしばしば思いを巡らせたりもしました。
 
「魏志」の「東夷伝倭人の条」(通称、魏(ぎ)志(し)倭(わ)人伝(じんでん))には、当時の倭人のことが記述されていますが、それによると、西暦239年に邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王卑弥呼(ひみこ)が魏に数回に渡って朝貢(外国人が貢物をすること)したとあります。そして、遥か彼方の倭国から使者を派遣して、貢物を捧げて朝貢の礼を取ってきた卑弥呼に対し、「忠義であるぞよ、愛い(う)奴じゃ、よってお前を倭王に任じ、そのしるしに金印(公文書に押す印)を与えるぞ」とあり、1800年前の日本は中華帝国の支配下にあったことがわかります。

また、その後編纂された史書「後漢書」巻113「東夷伝」には、卑弥呼の他に57年に奴(な)国(こく)王、107年に倭国全体の王と名乗る帥(すい)升(しょう)が後漢朝に朝貢したとあります。奴国は九州、福岡県の一部地域にあったとはいえ、これらの記述からも、当時の日本が中国の属国であったことを伺い知ることができます。

これに関連しますが、ゴールデンウイークに佐賀の吉野ヶ里遺跡を見に行きました。吉野ヶ里遺跡は、旧石器時代から中世までの遺構が重層的に存在する遺跡ですが、そのなかでも注目すべきは、弥生時代の大規模な環濠集落跡や墳丘墓です。環濠集落とは、小国が乱立した戦乱の時代であった弥生時代にあって、部落や身分の高い人の住家を外敵から守るために、三重にも築いた塀の内側に堀(環濠)を巡らせた集落の遺構です。この遺跡を見ると、三国志ドラマを通して見る古代の中国は文明、文化、そして軍事の面からみても遥かに先進国であったことがわかります。それに比べて、各地で部族が割拠していて、全国が統一もされていない我が倭国などは歯牙にもかからない弱小国だったのです。

しかし、当時の日本の様子ははっきりしていないのが実状です。「邪馬台国」は日本の何処にあったのか、また卑弥呼とは何者なのかは、いまだに謎につつまれています。それは、当時の日本には文字が無かったために、三国志などの中国の正史に記された伝聞や外交記録、旅行記などの文献を通してしか、当時の様子を覗き見ることができなかったからなのです。わが国の歴史が鮮明になるのは、七世紀に始まる飛鳥時代に、日本独自の文献記録が記述されるのを待たなければなりません。従って、それ以前の日本の歴史は、かなりいい加減であると言っても過言ではないのです。

それにしても、渡航そのものが命がけであった時代に、黄河の上流にある後漢の都・洛陽まで朝貢に行くとは、それほど中国が脅威であったのか、それとも中国というトラの威を借りて領地を支配しようとしたのでしょうか。翻って、現代でも、中国の脅威から日本を守ってもらうためなのでしょうか、それともアメリカに愛い奴だと思われたいためなのでしょうか、在日米軍のグアム移転費として、何の根拠もない一金、61億ドル(約7000億円)也を、米国に「朝貢」する小泉さんと卑弥呼が、私にはダブって見えてしまいます。

吉野ヶ里遺跡からは、2000個以上の甕(かめ)棺(かん)墓が出土しています。甕棺とは口広の大きな花瓶状の土器で、その中に死者を入れて埋葬したようです。中には首のない人骨もあって、敵が首だけを刎ねて持ち去ったのでしょうか。そして、死者たちは、高く土盛りした前方後円墳などの古墳ではなく、墳丘といわれる小高い丘状の墓域に埋葬されたのでした。

このように、我々の祖先は歴史の始まる前から、死者をお棺に入れて埋葬する習慣をもっており、遺跡から出土する人骨や副葬品が、その集落の大きさや、生活の様を窺い知る手がかりとなっています。

いずれにしても、我々が販売する霊園や墓石が、数千年の後に平和で豊かな生活を営み、先祖を大事した人たちの住んでいた時代の証として発掘されるのではと思うと、大変重要な仕事に携わっているのだと襟を正さずにはいられません。
 

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