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社長通信

第232号 シルクロード(後編)

2007年06月号

 インドで発祥した仏教は、中央アジアを経由して中国に伝わり、ゴビ砂漠の一角に開かれた都市、敦煌に根付きました。その近く、鳴沙山の東方の断崖に莫高窟(ばっこうくつ)と呼ばれる石窟群があります。
それは、4世紀半ばに、或る僧が石窟(洞窟)を掘り始めたのが始まりだと言われていますが、その後、約1000年の間に、南北に1600mに渡って1,000あまりの洞窟が掘られました。
現在、492の石窟が保存されており、そのうちの10ヶ所余りが開放されています。石窟には大小あって、天井や壁いっぱいに色鮮やかに仏像や仏教画、或いは隊商の様子などが描かれたものもありました。
この他、高さ26mの弥勒大仏像をはじめとして、2400余の仏の石像が残されています。

 さて、釈迦が入滅(紀元前544年頃)して、1000年も経つと、仏教は崩壊の危機に瀕するようになりました。 ちょうどその頃、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)法師がこの世に生を授かります(西暦602年)。彼は、10才で出家し、玄奘と名付けられました。その後、仏法を学ぶうちに、宗派が多数あって、それぞれの教えが違うことに疑問を抱きます。しかし真理は一つのはずです。
 玄奘は、真理を究めるには天竺(インド)に行くしかないと決意し、西暦629年に国法を破って長安(現在の西安)を出立すると、天山北路を通って中央アジアから天竺(現在のインド)に3年の歳月を経て到着しました。
そこで、玄奘三蔵は、ナーランダ寺で戒賢より唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、実に16年後の645年、仏像7体、経本657部を携えて長安に戻りました。

 この長安(西安)は、始皇帝の陵墓(秦始皇帝陵)と、それを守る兵馬俑(へいまよう)で有名です。
始皇帝は紀元前246年に中国を初めて統一国家として纏め、紀元前221年に中国史上初めて皇帝という称号を使いました(始皇帝とは、中国の第一代目の皇帝という意味)が、生まれつき体の弱かった始皇帝は、次のような願望を持っていたと言われています。第一に不老不死を得ること、第二に、もしそれが叶わぬならば、死後も生前と変らぬ生活を送ることができることでした。
そのために、始皇帝は、地下に宮殿を配した大規模な陵墓を建造しました。

 勿論、不老不死の薬草などあろうはずはありませんが、数千人の部下がその薬草を求めて世界中を旅しました。日本にも徐福という薬剤師が男女3000人を連れ、行ったということが司馬遷の『史記』に記されています。

 始皇帝陵の地下に広がる宮殿は、陶器でできた皇帝を守る兵や馬(兵馬の人形)で守られていて、あまりにも広大です。
特に、私が驚いたのは兵馬の大きさと形、そしてその数量です。兵は1.8メートルもありそうな大男で、一つとして同じ顔や形のものがありません。全部で8000体とも言われるそれらが、一体一体、服装、装備、表情、髪の形、手足の形が全て異なり、芸術作品としても見応えのある作品ばかりなのです。

 始皇帝は、暴君として悪名高い人ですが、その反面、彼の改革によって戦いに明け暮れていた当時の中国がずいぶん変ったと言われています。
始皇帝は、当時バラバラだった中国の文化や政治・経済を一つに纏め上げました。また、文字の統一、度量衡単位の統一、貨幣の統一、郡県制の施行、中央集権制、兵馬俑の築造、万里の長城の修復など、紀元前210年に亡くなるまでの30年ほどの間に、多くの改革や建造を行ったのです。

 しかし、その一方で、暴君と言われたように、中央集権的な始皇帝の政治を批判した儒家に対して、徹底的な弾圧を行いました。
また医薬書や農書などの実用書以外の書物を焼き捨て、儒者を穴に埋めて殺すという「焚書・坑儒」を行いました。また、兵馬俑や長城を作るために、数百万人とも言われる農民の強制徴用を行ったばかりか、陵墓の秘密を知った農民を生き埋めにしたという多くの伝説が今も残されています。

 翻って、現在の中国を見てみると、支配層と庶民の暮らしは今も昔も変らないように思えます。
支配層は贅の限りを尽くし、その一方で、地方には年収が10万円にも及ばない貧乏な庶民が山ほどいるのです。
中国の社会は、今も昔もこんなにアンバランスなのです。そのアンバランスなところが、私をして1年に1回は足を運ばせる魅力なのかも知れません。

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