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社長通信

第244号 七夕

2008年06月号

 七夕にまつわる伝説と行事は、あたかも日本固有のもののようにしっくりと私たちの生活に溶け込んでいます。しかし、実は中国から伝来した星物語の風習と、日本に古くからある祖先崇拝の儀礼が複雑に絡み合って、現在の形になったと云われています。
では、いったいどんな風にして七夕の伝説は生まれたのでしょうか? まずは最初に、中国のロマンチックな七夕の伝説を簡単に紹介しましょう。
 
 夜空に広がる天の川の東岸に天帝の娘の織女(琴座のアルファー星)が住んでいました。彼女は、毎日父の天帝や天人たちの着物となる布を織るのに忙しくて、いつまでも独身のままでした。
これを見た天帝は彼女を哀れみ、西岸にいる牛飼いの牽牛(ケンギュウ・鷲座のアルファー星)を婿にしました。織女は大変に喜びましたが、夫婦の生活に溺れてしまって、いつしか機を織ることも忘れ、天人たちが着る着物にも事欠くようになってしまったのです。
これに怒った天帝は、二人を別れさせ、年に一度だけ、七月七日の夜にだけ会うことを許しました。二人は一年に一度のその晩を待ちこがれていました。その晩晴れて夜空に天の川がかかれば、二人の逢瀬はかなうのですが、もし雨が降れば、天の川の水かさが増して渡れなくなります。そんなときは、二人を哀れに思ったカササギが羽根をのばして、天の川の橋となり、二人の再会を手助けするのです。
 
 この何とも幻想的な美しい物語がわが国に伝わると、織女は「織姫」、牽牛は「彦星」と呼ばれるようになり、より身近なものになっていったのでした。
いずれにしても、かつて、中国では織女にあやかって、七月七日に女性のたしなみの一つである手芸の上達を天に向かって願う行事が行われ、このとき願ったことは三年以内には必ずかなうと伝えられてきました。
 奈良時代になるとこの物語と行事はわが国に伝わりましたが、これとは別に、わが国では、古来、旧暦七月七日は、旧暦七月十五日を中心とする祖霊供養のための「盆」行事の一環との性格を持った、特別な日でした。
 
 すなわち、七夕は、近畿地方、北陸地方、新潟、福島、岩手、秋田、青森の各県では、七日盆(なぬかぼん)と呼ばれ、東北地方の一部と中国地方、他に関東、中部地方の一部では七日日(なぬかび)と言われてきました。
 七夕は、他にも、盆入り、迎え盆など、盆に関する名称で呼ばれ、この日には墓を掃除し、仏具を磨き、仏壇に供物や花を供えて盆の準備をしたのだといいます。
さらには、子供などに対して、「七度食べて七度水を浴びる」などの水浴の行事が行われるところもあり、他に牛馬に水浴をさせたり、年に一度の共同井戸の井戸替え(掃除)をする地域もあったそうです。
これらの行動は、盆に向けて大切な祖霊をお迎えするための前段階としての禊(みそぎ)を意味するものであったと言われています。
 
 ある地域では、「この日には必ず雨が降るものだ」とか「少なくとも三粒は降る」「七夕の笹の短冊が流れ落ちるほど降った方がよい」などと言い伝えられていますが、これらの雨は、精霊を迎えるにあたっての「清めの雨」に他なりません。
その雨も、織姫と彦星の恋路とは無関係に、土砂降りになればなるほど、汚れがすっかり流されてしまってよいとされてきました。
 七夕の夜に雨が降れば、星祭りをすることも出来なくなり、織姫と彦星の年に一度の出会いにも支障をきたしてしまうのに、雨が降った方がよいという矛盾した言い伝えも、もとはといえば、旧暦七月七日の意味が日本と中国ではまったく違っていたのだから当然と言えます。
 
 このように、日本の七夕行事は、中国から伝来した星物語とそれにまつわる行事と、日本古来の精霊信仰に基づく行事が融合したものですが、明治以降、七夕が新暦の七月七日に行われるようになると、かつて持っていた盆行事の一部であるという意味が欠落し、かつ中国から伝来した行事も風化してしまった結果、七夕はほんのりと甘いラブロマンスが強調された、かつてとは異なった意味を持つお祭りとなってしまったのです。

 どうやら、海外の行事や祭りをうまく日本流にアレンジして、開催も八月七日前後にして、夏枯れ時期の商店街の集客のための行事にしてしまうのは、昔から日本人は得意だったようです。(本稿は環境文化研究家名本光男氏の協力により作成しました)

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