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社長通信

第250号 無常観 

2008年12月号

毎年この頃になると、喪中はがきが来ます。それも毎年増える一方で、今年は昨年の3割アップになろうとしています。私たち夫婦連名で出す友人・知人への年賀状は、新規に出すのはそれほど増えていないのに、1割近くの人が毎年身内を亡くしているようです。
今月に入って、元総理秘書官を務めたことのある、学生時代の一年先輩の葬儀に参列しましたが、彼はまだ70歳だというのに、3年ほど前に脳梗塞で倒れ、糖尿病も患っていたこともあって、長期の入院生活を続けた後、介護の甲斐もなく不帰の人となりました。同じ頃、横浜支店の社員の母堂も亡くなられましたが、74歳だったとのこと。この女性も人工透析で通院されていたとのことですが、脳梗塞が原因だといいます。
 生あるものは必ず滅びるとは言え、このように若くして亡くなられた方のことを思うと、その年齢の若さ故に世の無常を覚えます。
 この「無常」こそは、我が国を代表する古典文学、平家物語の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」にもありますが、これこそが仏教の神髄だといいます。つまり、仏教では、この世の現実存在はすべて、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども同一性を保持することができないと説き、これを「無常」と言います。そして、この無常は、私たち日本人の心に深く定着し、私たちの心情を表す言葉にもなっています。
 たとえば、日本人は、桜をこよなく愛しますが、これも、そこに常なき様、すなわち無常を感じ、移ろいのはかなさに美を感じているからです。
 また、日本人は神代の時代から、虫や魚、一木一草、石・山にさえも生を感じ、魂の存在を信じてきました。だから、無闇やたらに殺生することを戒めてきたのです。それがどうしたことか、最近では誰でもいいから殺したかったという理由だけで、いとも簡単に殺人をする人間が現れるようになりました。
 
 世界に目を転じてみれば、アフガンやイラクではアメリカ軍とイスラム教徒との殺し合いが激しさを増し、ヒンズー教徒の国、インドでも爆弾テロが発生しました。インドの事件は、どうやらヒンズー教の国インドにおける少数派であるイスラム教徒の仕業のようですが、争いの構図の中心には、いつもイスラム教徒対他宗教の対立が見え隠れしています。また、イラクではイスラム教徒内の宗派戦争の様相を呈しています。
 旅行で訪ねたことのあるイスラム圏のサウジアラビア、エジプト、トルコなどと日本を比べると、日本は緑が豊かで、たおやかな自然がそこら中に広がっていればこそ、総ての物に神が宿っていると感じるのだと思います。お宮さんの境内にある大木や、二見が浦の夫婦岩にはしめ縄が張られ、木や岩をも神として崇める日本人には自然を畏敬する心があるように思われます。
 
 先の「無常観」に通じますが、釈迦の教えには、輪廻転生(りんねてんしょう)-万物は流転する-という教えがあります。つまり、万物は自然から生まれ、また自然に帰る。生あるものは必ず滅び、また生まれてくるという教え、哲学です。その生と死の間にあることが、私は生きるということだと思うのですが、その生を本人以外の意思でもって断ち切ってしまう殺人事件が、今の世相を映しているようで、気持ちが堪らなくなります。
 このような事件は、特にインターネットが普及してきた、10年くらい前から増加してきたような気がします。所謂、怨恨や金目当てでもない、人を殺したいから殺したという、無意味な殺人事件です。事件に巻き込まれて殺されてしまった人は堪りませんが、イスラム過激派の自爆テロと相通じるところは、どちらも仏教徒には理解し難い殺生だということです。
 いずれにしても、ITの便利さとは裏腹に、人の心をスポイルし、善か悪か、白か黒か、生か死かのように二者択一を人々に迫ったり、リセットすればすべてが元に戻るという錯覚を植え付けてしまうのが、コンピューターのように思えてなりません。特に、物心が付いたときからテレビゲームで遊んでいる子供は、外で遊ぶことが少なく、情緒や情感を育む機会が少ないためか、自然や生命を畏れる心が養われずに大人になってしまいそうです。今こそ、子供たちが外で多くの生き物に触れながら遊ぶようにしなければならないと思います。

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