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社長通信

第276号 宗教 

2011年03月号

 信仰とは人智を超える絶対的なもの-神や仏、霊魂などを信じること-です。ところがお釈迦様は、それまでの信仰のまちがいに気づき、それを否定することによって迷いが解け、真理を理解し、会得することができるようになると教えられたのです。これが所謂「悟り」です。
 
 歴史の古い順に宗教を並べてみると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教となりますが、これら一神教の世界では、自分たちの神が唯一絶対であると教えられ、信じられています。ところが、この三つの宗教とも聖地はイスラエルのエルサレムです。イスラム教もキリスト教も、ユダヤ教の教典である旧約聖書の預言者アブラハムの宗教的伝統を受け継いでいます。日本の新興宗教の多くが仏教の教えを基としているように、イスラム教もキリスト教もユダヤ教も原典は同じですから、神(=造物主=ヤハウェ)も同じであるはずです。ところが、因縁が深ければ深いほど、憎みあうと泥沼化するのは宗教とて同じです。
 キリスト教の神はゴッド、イスラム教はアッラー、ユダヤ教はヤハウェと、造物主は神一人である筈なのに、それぞれ呼び名を変えて、自分の神が全知全能唯一絶対神と言って、異教徒を異端者として排除したり、或いは攻撃の対象にしているように思われてなりません。イスラム原理主義者の自爆テロは排他独善の典型で、その指導者たちはアッラーの名を借りて、無知な者たちを陶酔させ、彼らの命と共に他国や他民族、或いは同邦の命を奪っています。
 マホメット・キリスト・釈迦などの始祖達は、神や仏の名を借りて、人々が平和で幸福になるための法を説いたはずです。それが一千数百年の時を経て、伝道者や宗教指導者の中の心ない者によって、信者は狂信者へと導かれ、ついには自爆テロへと駆り立てられてしまうのです。彼らは、殉教(信仰する神のために命を捧げること)することによって天国へ行けるなどと、純朴な信者を暗示に掛け、この世に阿鼻叫喚を描かせています。しかし、誰も天国から戻ってきた人はいないのですから、それは迷信に過ぎません。民族紛争や部族紛争、或いは戦争や内紛を俯瞰してみれば、宗教と政治が絡み合うことによって、「神」が権力に利用され、庶民が犠牲になっているといわざるを得ません。
 
 400年の昔、織田信長は、比叡山延暦寺を焼き討ちにし、僧兵・僧侶はもとより、女子供まで皆殺しにしました。しかし、当時の延暦寺は、人々の信仰を集める宗教集団というよりは、僧兵4,000人を抱え、権力と武力を持つ強大な政治勢力だったのです。延暦寺の影響下にあるところは治外法権の状態にあり、信長は彼らが戦乱や政治腐敗の原因であると考えたようです。即ち、信長にとって、延暦寺は、戦国の世を終焉させ、天下統一をなさんとする野望の妨げであったわけです。そこで、彼は、再三に渡る僧兵の武装解除の通告をしたにもかかわらず、断固拒否し続けたので焼き討ちしたのです。NHKの大河ドラマ「江」の父親は、小谷城で信長に滅ぼされた城主の浅井長政です。彼は信長の妹お市の方を嫁にし、義兄弟の契りを結ぶほどに信長に信頼されていましたが、朝倉軍と共に延暦寺に加担したため、信長の敵となりました。
 いずれにしても、特定の宗教集団(教団)に入信した人は、その信仰を同じくする信者と深い絆で結ばれ、例えばイスラム教徒が他の宗教に改宗した場合、イスラム教を国教としている国によっては死罪になることがあると言います。また、オウム真理教の信者が、その指導者、麻原彰晃の指示に従って、地下鉄にサリンを撒いて、何の罪もない人々を大勢殺してしまったことは記憶に新しいところです。
 このように特定の宗教の信者になることは、命がけのところもある訳です。40年ほど昔、主義思想の路線の対立から仲間同士が殺しあった赤軍派なども、マルクス共産主義の狂信者だったわけですから、マルクスという「神」の信仰者だったと言えます。
 
 去る11日に起こった東日本大震災は一万人以上の命を奪いました。このことからこの世に神も仏もあるものかと憤ります。津波に襲われた町々は、終戦時の東京や広島・長崎と同じ光景です。焼け野原から立ち上がった我が大和民族は、たった半世紀で世界に冠たる先進工業国となりました。ところがこの10数年は、驕り昂ぶった咎めがきたのか、すっかり元気を無くし、近隣諸国からもなめられる国となりました。今回の震災は、天が我々日本人に課した試練であろうと思います。我々はこの震災を第二の敗戦と覚悟し、初心に帰ってがんばれば必ずや復興することと思います。

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