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社長通信

第303号 甘粕正彦

2013年06月号

 先日、友だちが出演する芝居、「人は来たりて見よ―甘粕正彦陸軍憲兵大尉」を見に行きました。甘粕正彦の名は、「大杉栄と云うアナーキスト(無政府主義者)を殺害し、後に満州の夜の帝王となった右翼」としてしか知らなかったので、それほど興味を持って観劇したわけではありません。

 甘粕正彦は、関東大震災(大正12年<1923年>9月1日)後に敷かれた戒厳令下のドサクサに紛れ、アナーキスト大杉栄を殺そうとして、彼の愛人でアナーキストでもある伊藤野枝と大杉の7歳の甥を、部下3人と共に大手町の憲兵司令部に連行しました。甘粕一人で、大杉と伊藤を羽交い絞めにして殺し、子供は絞殺したことにしました。そして、部下が死体を素っ裸にした上に菰巻きにして、司令部内の使用していない古井戸に投げ捨て、その上にレンガ、馬糞、ごみ、土等で埋め、平坦にし、証拠隠滅を図りました。
 ところが、直ぐに犯行が露見し、軍事裁判となります。甘粕は単独で犯行に及んだと主張し続け、部下たちもアナーキストの殺害には関与していないと主張しました。ただ、甘粕は、子供は殺していないと証言したそうです。アナーキスト殺人事件は、甘粕大尉の単独犯行として10年の実刑が確定しました。
今世紀になって、当時の死体検案書が発見され、それには大杉や伊藤の全身には打撲傷があり、2人と肋骨が折れていたとありました。つまり、検案書を見る限り、甘粕の陳述は嘘だったと言うことになります。
 私の見た芝居では、甘粕が部下と共に、陸軍上層部の意を汲んで、大杉ら3人を拉致し、大人2人を嬲り殺し、子供を絞殺した後、上官や部下、さらには憲兵隊・陸軍・国家を守るために、その罪を一身に負い、帝国軍人としての矜持を守ったというストーリーになっていました。

 殺害された大杉は、陸軍幼年学校に入学するも、男色の行為により中途退学。その後、妻の他に愛人2人を同時に持つなど、自由恋愛主義者でもありました。幼年学校の後輩である甘粕は、国家存亡の時に奔放な性を享受し、且つ無政府主義運動のリーダーであった大杉を許せなかったのかもしれません。
 しかしながら、ここで不思議に思えるのは、憲兵司令部の中の出来事が、どうして露見したかです。当初は、大杉らを行方不明と扱っており、敢えて事件を暴く必要はなかったはずですし、大杉が殺されたからと言って、だれが困るわけでもなかったはずです。
 憲兵隊は、大杉の動向を常に尾行していた警察から得ていました。憲兵隊は陸軍省、警察は内務省の管轄です。つまり、この不可解な出来事は、大杉を投獄することは警察の仕事なのに、不法な手段で陸軍に横取りされ面子を潰された警察が、マスコミにリークしたのではと推察します。内務省と陸軍省の権力争いの為に、この事件が白日の下に晒され、甘粕一人が罪を被ることになったのではないでしょうか。

 ところが、甘粕は、2年数ヵ月後、恩赦で仮出所となりますが、すぐに婚約者と結婚、留学のため船でフランスへ旅立ちました。出所から4年後には満州に渡り、数々の謀略活動を行い、満州国の建国に尽力し、陰の支配者とも言われました。昭和14年には満州映画協会(満映)の2代目理事長も勤め、昭和20年8月15日の敗戦の5日後、服毒自殺をします。自殺前夜、友だちに「俺はやっちゃいないよ」と告白していますが、出所後の彼の活躍は、陸軍の後ろ盾無くして出来なかったと思われます。
 彼が理事長を務めた満映は、植民地政策遂行のための国策会社です。当時新京放送局に勤めていた森繁久弥が、「甘粕正彦は、満州という新しい国に、我々若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。それは、<ビルを建てよう>だの、<金を儲けよう>と云うケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようと云う、大きな夢に酔った人だった」と言っています。
 
 甘粕は生前、大杉栄らの殺害について一切語りませんでしたが、「此の世は、きたなくて厭だ、人はずるくて気に食はぬ」、「憲兵もやめたい、人間も辞職したい」と言っていたそうです。
 彼の辞世の句は、「大博打 身ぐるみ脱いで すってんてん」でした。

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