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社長通信

第322号 大人物

2015年01月号

 水戸黄門として知られている水戸光圀が藩主を勤めた水戸藩には、江戸末期に武道のほかに、広く諸科学、諸学問について教育・研究をする機関としての弘道館が設立されました。
 この弘道館の教えのなかに、次の様な教えが残されています(自己流の意訳をお許しください)。
1.道を広めるものは人である。故に人としての本道を学び、これを広める使命を持たなければならない。
2.日本の進む道は、神世から続く皇道である。歴代の天皇も国民も、この道を一貫して守って来た。わが国には栄枯盛衰があっても、途切れることなく続いているのは、危機存亡の時に大人物が出てこの道を死守して来たからである。だから、国民はこの恩に感謝し、この恩に報いなければならない。
3.この恩に報いるには、正しい道を実践するとともに、外国の良いところを取り入れ、忠孝と文武に励み、それを当たり前に学問や事業に生かし、神を敬い、孔子の教えを尊び、一方に偏ることなく大衆の意見を集め、広めねばならない。それには日夜怠らず努力することが必要である。
 ここに書かれているような危機存亡の時と言えば、太平洋戦争に負けた一九四五年(昭和20年)が、まさにその時でした。東京・大阪などの大都市をはじめ、軍需工場のある地方都市は、B29爆撃機による爆撃によって、一面焼け野原になりました。広島・長崎には原爆が投下され、アメリカによって完膚なきまでに打ちのめされたのです。
 敗戦が濃厚になってくると、軍部は、女子供にも「竹槍(竹竿の先端を尖らせたもの)」を持たせ、本土に上陸してくる敵兵を突き殺し、もし虜囚(捕虜)の辱めを受ける事態になれば、肉親同士が相刺して、血と骨を以て大和民族の歴史と伝統を守れと、国民を鼓舞したのです。こんな愚かな命令を下したのは、時の総理大臣東条英機でした。この戦争では、天皇の名のもとに愚かな戦いを続けた結果、数百万人が犠牲になりました。
 戦前の憲法は大日本帝国憲法。その内容は立憲君主制です。当時の天皇は当憲法を遵守しており、今の天皇と同じように議会や内閣から上がってきた法案等に、内閣(戦前は国務大臣)の助言と承認に基づき御名御璽(ぎょめいぎょじ―OKのサイン)をされていたのです。法案等に質問したり意見を言うことは出来ましたが、原則としてノーと言えないのが天皇でした。権威はあるが、権力の無い存在が天皇だったのです。終戦の詔勅を読んでみれば、戦争の責任は全て軍部にあって、昭和天皇がどれほど国民の生命財産を守ることに心を砕かれたかが解ります。
 戦国時代、日本の支配者を目指す大名たちは、天皇から征夷大将軍のお墨付きを貰うべく、血で血を洗う争いをしながら上洛を目指しましたが、誰も天皇の座につくことはありませんでした。もし、天皇に権力があったならば、戦国大名たちは、天皇の座を奪おうと画策したはずです。
 日本の紀年法である皇紀によると、今年は、初代神武天皇の即位から数えて二六七五年になります。神話の時代も含めて、これほどの長い期間、天皇家が存続できたのは、天皇が、権威はあるが権力を持たない日本の象徴であり続けたからだといえます。
 危機存亡の時であった一九四五年(昭和20年)に、我が国の命脈を保つことが出来たのは、昭和天皇が存在していたからです。戦争を止めようとしない軍部の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしながらも国体を維持できたのは、昭和天皇のお蔭だと強く思います。昭和天皇は、歴代天皇の中でも、大人物に相違ありません。大人物とは即ち、権力や武力ではなく、御心の大きさと深さ―これが権威たらしめているのです。
 果たして現代に大人物は誕生するのでしょうか。
 今年は戦後70年。その間生まれては消えていった内閣総理大臣は32人です。平均するとわずか二年で内閣が代わっているのですから、政策の実現などできるはずもありません。そして、内閣が崩壊するのは、決まって政治と金の問題でした。民主主義は数で決まりますが、その数は政治資金の多寡によって決まることが多いのも事実です。かつて小泉純一郎が自民党政権で唯一、金ではなく民意で総理になりましたが、これはポピュリズムの典型です。その息子、小泉進次郎は若干33歳ながらイケメン政治家として頭角を現しています。
 野党民主党の代表選挙に、最初に手を揚げたのがイケメン細野豪志。彼は進次郎より10歳年上で、私の高校の後輩です。いずれ2人は与野党の代表として論戦を繰り広げる時が来ると思います。このような、バブルを知らない世代が政治の中枢に就いた時、本当の新生日本が生まれるのではないかと期待しています。

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