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社長通信

第323号 グローバル化

2015年02月号

 国技と言われる大相撲の上位力士は外国人ばかりですが、外国人力士の所属は一部屋に一人という規定があります。この規定が無いと、土俵の上は外国人ばかりになってしまう恐れがあるから、この規定があるそうです。彼らの多くは、発展途上国の出身で、日本へ出稼ぎに来ている感覚で、稼いだお金を国元へ送金していると聞きます。一方、日本人の新弟子は、入門後も親から仕送りを受けている者も多く、稽古に耐えられずに入門三日で逃げ帰る者も結構いると言われています。このようにひ弱な日本人からは、横綱は生まれないのではないでしょうか。
 「相撲は日本の伝統文化」という理由で外人枠を作っているとすれば、国際的なスポーツには決してなりません。野球、サッカー、テニスなどのスポーツは、国際化されたが故に、競技人口が増え、世界のトップを目指す子供も増えました。それらと比べると、残念ながら大相撲はマイナー過ぎます。相撲は神話時代に力比べとして発祥し、戦国時代には武士の戦闘訓練として盛んになったといわれています。織田信長は安土城に全国から力士を集め、上覧試合を催し、優勝者を家臣に取り立てたそうです。信長が今生きていれば、世界中から力自慢を集め、グローバルなスポーツにしたことでしょう。しかし、そうなった場合、相撲界はモンゴル人が大半を占めて、日本人は一人もいないことになっていたかもしれません。
 モンゴルと言って思いつくのは、ジンギスカン鍋で有名なモンゴル帝国の初代皇帝、ジンギスカン(チンギス・ハン。ハンは首領のこと)でしょう。彼は在位の期間にユーラシア大陸(アジアとヨーロッパ大陸のこと)のほぼ全域を制圧したことで歴史に名前を刻みました。
 彼の気性を知ることのできるエピソードとして、次の事が知られています。チンギスは、ペルシャに対して、数百人規模の隊商と使者を送ったことがあります。しかしながら、彼らは、途中で皆殺しにされ、荷物も奪われてしまいました。これに怒ったチンギスは、大軍を送り込み、隊商を全滅させた犯人を捕獲しました。その時のチンギスの怒りは凄まじく、溶かした銀を両目と両耳に注ぎ込んで処刑したそうです。
 さて、一二六六年、モンゴル帝国第五代皇帝フビライ・ハンが日本と親睦を深めようと国書を高麗人(高麗はモンゴルの属国)に託し、二度も九州の大宰府に渡来しました。しかしながら、幕府は、返書を送ることによってモンゴルの属国にされてしまうことを畏れて、無視し続けた結果、返書が来ないことに怒ったフビライは、三回目には女真族(中国の東北地方から沿海州方面の民族)を使って、百人態勢で大宰府に押し掛け、朝廷に会わせろと一年余りも滞在したそうです。しかし、一年待っても朝廷に会うことができずに、国書の写しを置いて帰国しました。
 業を煮やしたフビライは日本征伐を決意し、一二七四年、モンゴル兵とモンゴルの属国であった高麗兵の合同軍二万数千人が、千隻余りの船で押し寄せました。彼らは、最初に上陸した対馬や壱岐で極めて残虐な行為をしました。島民のうち、男は殺すか生け捕りにして、女は手に開けた穴に紐を通して数珠つなぎにしたと言います。
 モンゴル軍は博多湾に兵を進め優勢に戦いを進めていましたが、副将が戦死したり、食料の補給ができなくなり、ついには撤退を余儀なくされました。さらに、日本にとって幸運だったのは、彼らの撤退途中に台風が来襲し、大半の兵が海の藻屑になったことです(文永の役)。
 その後、フビライは日本がモンゴル帝国に服従することを求めて、五名の使者を送ってきました。彼らは鎌倉に送られ、問答無用で斬首されてしまいました。使者が戻ってこないので、フビライは、再度五人の使者を送りましたが、彼らもまた斬首されてしまいました。
 フビライは、これで堪忍袋の緒が切れ、第二回目の出兵を行いました。この時は、幕府は前回の経験から防衛方法を練り、累々と防御堤(要塞)を造り、攻撃に備えたものの、モンゴル軍は攻撃態勢を入る前に大型台風に襲われ、さらに伝染病の蔓延などもあって、自滅してしまいました。
 日本での海戦は失敗しましたが、陸上に於けるモンゴル軍の賢いところは、制覇した国の兵を先頭に立てて、次々と攻め続けたことです。モンゴルはもともと人数が少ないので、モンゴル兵だけでユーラシア大陸を制覇できる訳がありません。彼らは、巧みに占領した敵兵や武器、或いは戦法を使ったのです。
 しかしながら、イスラム国もそうですが、砂漠や草原で縦横無尽に往来して生きる砂漠の民は、従わない者や役に立たない者を即処刑するのは今も昔も同じようです。

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