トップページ社長通信第354号 満州

社長通信

第354号 満州

2017年09月号

 旧満州(中国東北部)生まれの友達が数名いる。戦争に負けるまでは、結構いい暮らしをしていた人もいる。彼らの暮らした満州に少なからず興味があって、今年のお盆休みに満州のツアーに参加した。
 成田から3時間。満州大連空港に着くと直ぐに中国の新幹線である高速鉄道でハルビンに向かう。驚いたのはプラットホームに行先や発車時刻の表示が無く、車両の乗車位置を示すのは、乗降口のコンクリートに小さく○号車と書いてあるだけ。下を見ながら探さねばならないので慣れないと大変。この特急に乗り遅れると、3時間も無いとのこと。何処の駅でもエスカレーターが一ヶ所あるだけで、エレベーターは無く、大きなスーツケースを引きずりながらの移動は大変だった。
 車窓から見る満州の風景は、見渡す限り畑の連続であり、トウモロコシやコーリャン畑から太陽が昇り、また沈んでいく。80年前は、この大地も荒れ地だったに違いない。時速300キロで走る高速鉄道は、日本の技術で造っているので、揺れも少なく乗り心地はまずまず。但し、全ての電車が当初のデザインのままで、進歩は無さそうだ。また、細部の製造の雑さは流石に中国的である。  
3時間半後、予定通りハルビン駅に着いた。ロシア統治時代に朝鮮の安重根に伊藤博文が銃殺された歴史に残る駅である。終戦時ハルビン市 にいた日本人は5万人。今回の旅行で一緒だった82歳の女性はハルビンの桃山小学校へ通学していたという。その建物が現存しているので見たいと訪ねた。戦前のままの建物をみて感涙されたようだ。
ハルビンは日本人が多く住んでいた都市だという。冬場は零下20度にもなる。日本が満州帝国を建国するまで、ロシアが支配していたので、ロシア風の建物が多く残っている。今回、廻った全ての都市で言えることだが、中国人は古い建物を大事に使っていると感じた。例えば、大連に戦前建てた西本願寺の寺院は共産党の本部として使っている。残っている建物は、ほぼ満州を統治していた間に建てられたもので、今やそれらの建物が観光スポットとして、特に日本人客に人気である。
 今回のツアーはハルビン、長春、丹東、瀋陽、大連の5都市である。どの都市も500万人以上の人口で、何処に行っても車と人でごったがえしている。
 馬賊が支配していた満州は、全く秩序が無く無法地帯に近かった。日本人は法律を施行し、1万キロに及ぶ鉄道網を敷き、軍隊と憲兵隊によって秩序を回復し、鉄鋼・石炭・石油を採掘し、それを製品化する重工業を興した。満州国は和(日本人)・漢(漢民族)・満(満州族)・韓(朝鮮族)・蒙(蒙古族)の五族協和を建国の理念とし、昭和6年(1931年)から終戦の昭和20年までの13年ではあるが、あの広い満州・蒙古・華北の開拓を進めたことは、厳然たる事実である。
 満蒙開拓団として、希望を持って渡満した日本人は27万人。終戦時侵攻してきたソ連に占領され、働ける男はシベリアに送られ、女性は強姦され、殺され、取り残された子供の多くは残留孤児となった。大人でも病気や飢えで亡くなった。日本人の死者は、敗戦時にソ連侵攻で殺された人も含め、広島の原爆で亡くなった人の数を凌駕する。それほどに苦しめられたのは何ゆえだろうか。モラルも規律も乏しい彼らを、三等民族と貶めた仕返しとしか思えない。
満州は日本の防衛線と言われていたが、その意味が分からなかった。現地に行って感じたことは、北にロシア、鴨緑江を渡れば北朝鮮、半島を南下すれば日本列島は指呼の間にある。ロシアは資源と不凍港を確保すべく南下して満州を支配した。日本はソ連共産主義を恐れた。日露戦争は満州を日本の防波堤と意図する覇権争いの結果であった。辛うじて勝利した日本は、ロシア人を排除し、満州国を造ったのである。ただ、現在の中国は13年間存在した満州国を認めたくないのか、どこの案内看板も「偽満州国」の表示となっていた。

会社情報
お問い合わせは、フリーダイヤル0120-300-100 資料請求・お問い合わせ
ページの先頭へ